法元 智至

法元 智至

1982年卒

・立命館大学卒業(硬式野球部所属、1986年春秋リーグ戦にて3番打者として(1学年後輩、元ヤクルト古田敦也選手は7番捕手)優勝に貢献、春季はベストナイン獲得、大学選手権、明治神宮大会出場)

・元東邦ガス硬式野球部 監督
2005年 都市対抗野球大会 (選手時代に果たせなかった出場を監督として果たす)
2006年 社会人野球日本選手権大会 (チーム初出場へ導く)

・ヤングリーグSASUKE名古屋でコーチ(2019年全国制覇)

OBからのメッセージ

1981年度卒業の法元智至です。

私は小学5年生の頃に愛知高校の純白ユニフォームを見て憧れ、全国屈指の名門てある中京、東邦を倒して甲子園に行きたい!この学校しかない!と決意して入学してきました。
実際に夏、秋の甲子園の懸かる予選で両校に勝つ事は実現しましたが、
1981年夏の予選では決勝で工藤公康投手(西武、ダイエー、巨人、横浜で活躍、前ソフトバンク監督)のいた名古屋電気(現愛工大名電)に3ー2で敗れ、甲子園出場を逃しました。(1級後輩元中日彦野利勝選手は3番センター)

当時は私の2年先輩と1学年下の後輩達が甲子園に出場しました。
これも何か私の負けん気に火をつけた出来事かもしれません。

愛知高校硬式野球部は近年甲子園から遠ざかってますが、現役の皆様におかれましては、
この自分たちのAichiのユニフォームに誇りを持って欲しいと願っております。

甲子園にこの純白のユニフォームを連れて行き大暴れするイメージを持って日々練習に励んで欲しいと思います。

選手の一人ひとりがチームのために何ができるか考え、全員が同じ方向へ力を合わせて向かっていくことでチームは必ず強くなると思います。
それを続ける事で次には勝つ事が当たり前になります。
まさに負ける事を受け入れないという状態です。こうなれば、チームは強くなってきている証拠です。

私が高校生活で学んだのは「諦めない強い気持ち」です。

高校1年生の頃、「イップス」のような症状を発症してしまいました。試合に出してもらい打撃で貢献する事があっても、イップスは悪化する一方でした。

ボールが投げられない中でも、監督(鹿島田先生)は1年生の秋から3番打者(3年次は2番)として私を信頼して起用し続けてくれました。

それでも私の心の中で
「いつか自分のせいで大事な試合に負けてしまうのではないか?」不安でたまりませんでした。ましてや、ボールの投げられない選手では、その先は無いこともわかっていました。

2年の夏には一級先輩達と甲子園に行く事が叶わず、準々決勝で敗退しました。
とりあえず自分のミスで負けなかったのは野球の神様のおかげかなと思って居ます。

その後、
新チームでセンバツの掛かった秋の県大会4強リーグで3位になり、

センバツの可能性が消えた翌日に
先生、左投げに変えさせてください!と申し出ました。

監督(鹿島田先生)はそんな事できるわけないだろうが!
最後の夏に間に合うはずがない。
と言われましたが、最後は黙ってやらせてくれました。

自分の中ではなんとなくですが最後の夏の5月くらいまでには必ず間に合うと、
何も根拠はないですが確信みたいなものがあり、
どんな事があってもやりきろうと諦めることだけは絶対しない!と
強い気持ちで取り組み、実際に最後の夏に間に合ったのです。

まさに野球マンガMEJORの茂野吾郎のような状況です。

あまりに珍しい話のため夏の予選前には、マスメディアの取材が名古屋だけではなく、東京や大阪からもあり、テレビの中ではこの選手は昨年右投げで試合に出て居たのに今年は左投げで試合に出て居ます。と中継の時にも言われてました。

夏の甲子園には愛知県大会の決勝で惜しくも敗れてしまいましたが、予選8試合で無失策を実現しました。甲子園に出られない事は今でも悔しい思いには変わりはないのですが、その後の人生に生きる大切な経験をしました。

現役選手の皆様も
きっと何かしらの困難と向き合っていることかと思います。

そんな時は
諦めないでひたむきに腐らず自分を信じて
やり続けてみてください。

そして、
引退後に振り返ってみてください。
素晴らしい時間だったことに気づけると思います。

私の経験踏まえて現役生に伝えておきたい事。
「人生は思うようにならない!簡単にイメージ通りには事が進まない」それがほとんどという事。
その時に、どう巻き返すか!と言うことです。

現役選手の皆様の「一勝」の積み重ねで
徐々に「愛知高校って強いよね!」と言われ始めることから始まりその先に甲子園への道が見えてくることだと思います。

私をはじめとする歴代のOBたちは、また母校が甲子園に出場することを夢見ています。

甲子園にまた行ける日を楽しみにしております。
頑張ってください